徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた名古屋城の天守閣にある金の鯱(シャチ)は、一体なんのために付けられたと思いますか?
そして由来には大きく分けて2つありました。
その由来をご紹介していきます。
鯱(シャチ)とは?
鯱とは姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物です。
一字で鯱(しゃちほこ)・鯱鉾とも記載されています。
火事の際には水を噴き出して火を消すという言い伝えがあり、建物の大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様守り神とされました。
寺院や堂塔内にある厨子等を飾っていた鴟尾(しび)が原型で、織田信長が安土城天主の装飾に取り入り使用したことで普及したといわれています。
陶器製(鯱瓦)のものや、銅板張木造のものが多数です。
※鴟尾(しび)・・・寺院・仏殿などによく用いられます。
後漢以降、中国では大棟の両端を強く反り上げる建築様式が見られ、これが中国などの大陸で変化して3世紀から5世紀頃に鴟尾となったと考えられています。
唐時代末には鴟尾は魚の形、
鯱(海に住み、よく雨を降らすインドの空想の魚)の形等へと変化していきました。
瓦の伝来に伴い、飛鳥時代に大陸から日本へ伝えられたと見られています。
火除けのまじないにしたといわれています。
金鯱とは?
鯱に初めて金を施したのは、織田信長の安土城天主とも羽柴秀吉の大坂城天守とも言われています。
豊臣政権下では、許可を得ずに瓦などに金を施すことは許されていませんでした。
関ヶ原の戦い以降、豊臣政権の弱体化により権力が徳川家康に移ると実質の築城規制の解禁がにわかに起こり、同時に天守建設が流行すると金鯱(金箔押鯱瓦)や金箔瓦を上げる大名が増えていきました。
しかし、徳川政権(徳川幕府)が固まると、築城に関する規制が起こり始めました。
元和元年(1615年)以降は、築城・天守造営の原則禁止にともない、金箔や金板を張った鯱を上げられることはほとんどなくなり、建物の修築後は、財政難から質を落としたり、まったく張らないようにした城が多かったそうです。
名古屋城のしゃちほこ(鯱)の由来1
名古屋城のしゃちほこの由来には
厄除け
が挙げられています。
しゃちほこは頭が虎のようで背から尻尾に掛けては龍のような形をしているため想像上の生き物です。
そして、このしゃちほこは
水を吹き出すとされています。
だから、建築物の屋根から水を吹いて、城を火から守ってくれる役割があります。
名古屋城では、金鯱のレプリカが地上に展示してあります。
実際の大きさを知ることができますので、一目見る価値有りです。
※金鯱が乗っていた、もしくは乗っている城
安土城
大坂城
江戸城
駿府城
名古屋城
伏見城
鯱鉾(しゃちほこ)と織田信長の関係
実は、初めてしゃちほこを取り付けたのが織田信長なのです。
安土城に取り付けられました。
安土城の出来栄えは素晴らしく、後のお城作りに大きな影響を与えています。
もちろん名古屋城にも、豪華なしゃちほこが鎮座する由来となりました。
名古屋城の鯱鉾(しゃちほこ)の由来2
名古屋城は徳川家康が政権を獲った後に築いた大きな城です。
徳川家康としては、徳川家の強さを見せつけるために、当時の日本で最大の城が大阪の大阪城でした。
その大阪城よりさらに大きな城を持つことで、徳川家の強さを見せつけるために大きなしゃちほこが据えられたのが由来です。
なぜ、大きな城を持つことが必要なのか?
政権を取るまでは大阪城がもっと最強にして、最大でした。
名古屋が天下町であり、徳川家が最強というイメージを見せつけることで「徳川家には逆らえない」と思わせる必要があったからです。
名古屋城の金鯱には金が200kg以上の使用量
大阪城の倍以上のサイズ
金のしゃちほこの高さは2.7メートル
名古屋城の金のしゃちほこは4キロ離れた東海道まで輝いていた
まとめ
豪華なしゃちほこを飾る名古屋城の由来は大きく分けて2つの由来がありました。
しゃちほこと言う、虎と龍を合わせた魚の空想上の生き物による、厄除けと徳川家の強さの象徴を見せつけるためでした。
ぜひ、名古屋での観光の機会があれば、全国でもNO1を誇る豪華な金のシャチホコを見に来てください。
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